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*2019年2月に行った「学びのシェア会」での発表音源を元に、ざっくりと文字に起こし、加筆修正したものです*
この場に立会い、発表を「鑑賞」してくださった学びのシェア会のメンバーに心から感謝いたします。

 

わたしは表現と鑑賞に橋をかける場をつくる仕事をしています。
「表現」は特に美術に限定しているわけではないのですが、ここでは話を簡単にするために、美術作品や音楽作品などと捉えてもらえるといいかと思います。

今回の発表の目的は、
・「美的発達段階」の理論自体がおもしろいのでお伝えしたい
・この道のりを通ってきて、今わたしがやってることまでを発表する中に、聴いている皆さんの日々の活動や仕事に関係があることが見つかればうれしい
という2点です。どうぞよろしくお願いします。

さて。

わたしは2015年にVTSの鑑賞ファシリテーター養成講座に参加しました。
VTSとは、Visual Thinking Strategiesの略で、NYのMOMAで研究開発されたアート鑑賞ワークショップの手法です。
VTSとはの概要の参考:http://vtsj.acop.jp/concept/index.html
進め方の参考(PDF):https://www.jb-honshi.co.jp/museum/summit/pdf/summit08_4.pdf

非常に大まかに説明すると、ファシリテーターが絵の横に立ち、鑑賞者たちと向かい合い、
「この絵の中で何が起こっていますか?」
「それはどこからそう思いましたか?」
「他に気づいたことはありますか?」
という3つの質問をしながら、鑑賞者とファシリテーターとの一対一のやり取りを展開します。
指し示し、要約し、複数の鑑賞者の視点をつなげ、それらを常時場に共有しながら、1点1点の作品の鑑賞を進めていく形式です。

VTSを学んでよかったことは、
・細部まで徹底的に観察する訓練
・何が見えているのかを言語化する訓練
です。
問われることで、それまで漠然と観ていたことに気づく。「こういうここに影ができているんだ、だから俯いて表情が暗く見えて、訳ありげな印象を持ったんだ」など、自分の印象がどこから、何によってもたらされているかを知ることができる。
しかしそれも、他の人から観たら違う印象に見える。
・別視点の候補を持つ訓練
にもなりました。

さらにこの鑑賞法が素晴らしいのは、これら3つのシンプルな質問の繰り返しによって、いつのまにか質問が鑑賞者に内在化されていくこと。他の作品を観るときにも、この質問と応答を「鑑賞者が自分の中で起こせる」という点。
つまり、
・作品を観る軸を作る訓練
です。鑑賞の軸の作り方はある、ということを知り、手法を学びました。

「美術館に行っても絵の見方がわからない」という声を聞くことがあります。
VTSを学ぶ前は、わたし自身もそのような質問に対して、「自由に見ればいいですよ」「感じたままを見ればいいですよ」などと言っていたのですが、あれはけっこう雑だったなと気づきました。
わたしもやはり最初は「観察」からやっていたし、「印象」を持ちそれがどこからくるのかを探る、家族や友人との対話の中で言語化し、お互いの見え方の違いに刺激を受け、また別の作品を観察し…という繰り返しをしてきたのでした。

絵の描き方があるように、絵の見方もちゃんとある、ということ。
鑑賞となると急に「感性が大事」一辺倒で、「あなたの自由で」など雑な感じになりがちなのですが、ステップがある。それは言語化され体系化されて理論としてある。これは素晴らしい手法だなと思いました。

 

でも、この手法を勉強してるとき、鑑賞者としてのわたしは、あまりおもしろさを感じられなかったんです。

わたしの学んだVTSの手法では、鑑賞のときに作者名やタイトルは一切知らされません。
鑑賞時間が終わったあとも明かされません。
VTSにも流派や改編があるようですが、わたしが当時教わったのは明かさないやり方でした。
鑑賞者のほうでこの絵について既に知っていることがあっても発言しないこと、というルールでした。

そして、その絵から想起された自分の個人的なエピソード…例えば「亡くなった母がいつも台所でこんな感じだったのを思い出します。去年亡くなったんですけど」とか、そういう話も出ません。
徹底した観察と印象について言語化することで、作品と対話することに主眼が置かれている手法だからです。
わたしはもともと個人的なエピソードを話す感想の場が好きだから、これはこれですごくいいんだけれど、これ「だけ」を極めていくのはなんだかやりたいことと違うな、わたしはこれじゃないな、と思ったんです。

ただ、「徹底した観察」や、「作品に沿って進めていく」という姿勢は、対話を深める上では非常に重要なため、自分の場に一部として取り入れました。作品を味わう、鑑賞することを通じて、一人ひとりの学びや気づきを促進する場では、「その結果として自分の個人的なエピソードも出てくる」のであり、やはりその作品の話を7割はする必要があります。
これは他の鑑賞の場、たとえば読書会や映画上映会などでも同じです。

もう少し違和感の話をすると、VTSでは、ファシリテーターは「なぜこのような手法で鑑賞の場を設けたのか(きょう願っていること)」、「なぜきょうこの絵を紹介するか(動機や理由)」、「わたし個人とこの絵との関係」なども出しません。
黒子的な役割に徹するところも、「誰が橋をかけるか」「ファシリテーター自身がどのような人間なのか」を重視しているわたしにとっては、やりたいこととは違う…。

また、絵に関する情報もなく、印象だけで語っていると、だんだん妄想のようにになっていくことも気になっていました。
その作品にはその作品における事実があり、作者の意図や時代背景、絵画のムーブメント、研究成果、現在の社会や世界における位置付けなどの文脈があるわけですが、鑑賞者が作り出した架空の物語のほうにバーっと進んでいってしまうことが、途中で辛くなることがありました。

もちろんこれはVTSという手法がダメとか間違っているとか、そういうことを言いたいわけではありません。
わたしの違和感を明らかにすることによって、わたしがそこからどのように自分の道を見出していったのか、という話です。

そう感じたときに思い出したのが、これもVTSの講座で学んだ《美的発達段階》でした。

 

美的発達段階はVTSが土台にしている3つの理論のうちの1つです。

アビゲイル・ハウゼンの美的発達段階
第1段階:物語の段階
作品を見て、自分自身の物語を作る。自分の記憶や経験へと話が逸れ、「鑑賞」からどんどん離れていく。

第2段階:構築の段階
好き嫌いだけでなく、アートの質を考え始める。自分の中にアートの定義、あるいは人生の価値観に対する定義があるため、それに当てはまらないと不安に思ったり、ときにはそのために反感、怒り、抵抗をみせる。

第3段階:分類の段階
理論と理性で作品をみようとする。主観的な発言は避け、作品をみて考えるというよりも、作品についてのデータを求めている。

第4段階:解釈の段階
自分の主観、感性、知識を駆使して鑑賞できる。作品に関する知識もあり、目の前にある作品にとどまらず、そこから他の作品やメタファーなどにも考えが及ぶ。

第5段階:再創造の段階
この段階の人は、作品から作品以外のこと、例えば自分の人生や経験、感情など美術以外の世界にも自由に行き来できる。まるで幼馴染と遊ぶように作品と遊べる人。この段階の人は来館者の中には0.1%しかいない。

(福のり子(2014)鑑賞者なくしてアートは存在しない!,プラクティカ アート・リテラシー入門, フィルムアート社,pp.132-133)もう少し詳しい説明がこちらのp8-9にあります。

 

この美的発達段階は、順序に沿って発達していくという理論。
だから急に1から3に飛んだりしないらしい。
アートに触れる経験の長さが関係するので、大人であっても経験が少なければ第1段階からはじまる。
各段階は同等の重要性を持っているので、こっちのほうが偉いとか、こっちが劣っているという話ではない。
なども学びました。

今の話の流れでポイントなのは、第1〜第2段階が来館者の85%(個人的な趣味趣向で作品を観る)ということ。
そして、VTSの対象者はこの第1〜第2段階の人たちです、ということ。講義で言われていたのを思い出したのです。
だとすれば、作品に関するデータが一切提示されないのも納得だし、やや妄想的にもなっていくことも許容するでしょう。
社会の中でのこの作品の位置付けを考えるような、テーマ性のある作品、宗教、性やジェンダー、暴力、、などのセンシティブなテーマも積極的には選ばれません。

第4段階、第5段階へと進むと、鑑賞の軸が立っていて、自分自身の知識や感性や感覚とも統合しながら作品と対話していくので、事前にレビューを読んでいても参考程度に扱えるし、他の人が違う視点を持っていても、影響されることを楽しめる。
第1、第2段階の人は、鑑賞の軸がまだあまりないか薄いので、そこを配慮する必要がある。
その配慮した形がこのVTSの場だということなのかと理解しました。まず人によって視点が違う。同じものを見ていても違うところを見る、違うように解釈する、ことを発見するための機会。
学びの種類が違う、とも言える。

この理論を何に使えるかなぁと考えたときに、たとえば、わたしは未経験者向けに百人一首や競技かるたの楽しみ方を教える講座もひらいていますが、そこで使っているなと。
未知の分野に橋を架ける、手渡していく役割の者として、この美的発達段階別に対象者を設定することって非常に大切です。
初めて百人一首や競技かるたの世界に触れる第1段階の人は、とにかくすべてが未知。感触や感覚を使って「おおー!(驚)」となってる人に、第3段階でするような話だけをしてデータを詰め込んでも全然「入らない」。
自分に関係しているものとして受け取ってもらうためには、よく知っているこちら側から対面で行くだけではなく、はじめて出会う人が見ている景色のほうに、自分も身体ごとぐるっと回転させてみることが大事です。
そのためには自分にとって未知のものにしょっちゅう触れている経験が必要、ということでもあります。

 

さて、VTSが土台にしている理論が、『美的発達段階』の他にあと2つあります。
・思考は言語を必要とする。
・学習は学習者に準備が整っている場合にのみ起こる。

これもまた非常に重要な理論で、漠然と「そうだろうな」と思っていたことが、明確に言語化された喜びがありました。

 

わたしは「舟之川聖子のつくる鑑賞対話の場ってなんなんだろう?」という大きな問いを持ち続けてきました。
今皆さんの前で話ながらより明らかにしているところなんですが、ずっと持ってきたのは、「この作品、この表現物を観る」ときに、「観る人の人生にとってどういうふうに関係あるか」に意味を見出しているということです。そして、そのときには、対象物と鑑賞者の間に必ず人間がいて、「橋をかけている」ということ。未知と出会わせている、関係させている。

「物」としてサポートするものは既にたくさんあるんですよね。こういうふうに見ればいいよとという鑑賞ガイドやワークシートがあったり、「名画の見方」という書籍。これはこれですごく役立てることができる。

また他のサポートツールとしては、
・専門家の講演に行く
・NHK・Eテレの日曜美術館で見た
・ウェブ記事を読んで興味がわいた
・デートコースとして
・館内レストランのタイアップメニューが楽しみにきた
…とかいろいろある。

でもそれ以外にも、観た感想が話せる、ということもあるはずなんです。
そして、ツールを使って橋を架けてくれる人が必要。

間で橋を架けてくれる人が、「あたしここがぐっとくるんだよね、あなたはどう?」「今回はこういうふうな軸で切ってみたんだけど、その視点で見てみるとどうかしら?」など、関係しやすいように「ひらいて」「問いかけて」くれる。あるいは、「わたしが美術館で働いているのはこういうことがあったからなんですよ」とか、その人自身が自分の人生にどういうふうに関係があるか語ってくれたりすることも、関係しやすくなる。わたしだから、その人だから、というものを大切にしたい。
そのしつらえの上で、感想を対話する場がある。それぞれの人の個人的なエピソード、個人的に知っていることをジャッジされない、否定されない安心安全な場で話せることで橋がかかる人というのも一定数いるだろう、ということを今すごく考えています。(もちろん事実と異なることについては訂正は入る)

VTSという手法は自分のことを話さなくていいから、すごく安心安全ではあるんです。すごく抑制が効いているんだなって思った。
作品が選ばれるときも、突っ込んだ話にならないように、作品選びもすごく考えられている。
例えば専門的知識が必要とされない作品。専門的知識っていうのは、歴史的、宗教的、神話的など、読み解く時に必要な知識的なバックグラウンド。正解があるものは対象外にされている。

暴力、性、病や死を描いた作品、抽象的、風景画、肖像画・自画像と対象から外されていて、ストーリーが組み立てやすいものが選ばれている。だから第1段階、第2段階の人にとってはすごく話しやすい。
でも美的に成熟している第4段階、第5段階の人にとってはやっぱり突っ込んだ話までしたいから、それこそがおもしろいし楽しいから、ちょっとこっちのVTSでつかっているような作品の選び方ではなくて、もっと対象者にとって再創造が促されるような作品を選んだり、対話の場をつくるのが必要になってくる。

なぜそれがたくさん生まれないか、普及しないか、というと、第4段階、第5段階の対象者向けの「対話」の場ってマニュアル化しにくいんだと思います。ただ、潜在的には求めている人はたくさんいて、場があれば喜んできてくれる。

まだ「あまりない」ものだから難しいけれど、わたしは今まさにそれがやりたいんだなというところにきています。

ご静聴ありがとうございました。

 

—–(このあとは感想や質問の時間)—–

●感想:わたしは橋をかけてくれる人が必要な人間なので、すごくせいこさんを必要としてます。今、一冊の本を精読する読書会を毎月ひらいているんだけど、やっぱり個人的なエピソードを語るんじゃないと面白くなくて。VTSはじめて詳しく聞いたけど、それだとわたしも少しきついかも。ぜひがんばってください。

ーありがとうございます!

 

●質問:その絵の見方がわからない人にとっては最初のとっかかりとして、VTSみたいなあるよねっていうとこなんですかね?

ーそうですね、いくつかの美術館で導入されていたり、学校の美術の時間に実施されているようです。

 

●感想:観て感想を語ることが橋、なんですね!

ーあ、もちろん第3段階で橋が架かる人もいます。たぶん自分で体系立てられる人データが好きな人、客観的にみたり分類したりするのが得意な人だと思います。わたしも知識や体系や情報がが必要なときは、講演会やシンポジウムや勉強会のような場はすごくありがたいです。個人の学びをより活性化するために。ただやっぱり自分の感想を話してみたいし、他の人がどう感じているか、考えているか、役立てているかを双方向で、個人としてどうなのか、を聞いてみたくなっちゃうんですよね(笑)

 

●質問:「VTSで第1・第2段階の鑑賞スタイルで進んでいくと妄想的になっていく」とおっしゃってましたが、もう少し詳しく聞きたいです。

ーたとえば、「この女の人はきっと夫が戦争に行って死んじゃって、それでも信じられなくて手紙がくるのを毎日待っていて…」とか、そういう感じかな。

もう作品の主題などから全く離れちゃう、作品の物語の中に自分が入り込んで、自分で物語を形成しちゃうんですね。

ーそうですね。それはそれで楽しいし、自分もそういう感じを使いながら観てはいますが、それに偏るとちょっと…という。

 

そうなることは鑑賞ではないんですか?

ーいや、そんなことはないです。それも一つの鑑賞だと思います。美術作品にふれはじめた段階の人にとって、絵を見ることがすごく楽しくてよき体験として残るのであれば、それはとてもよいと思うんです。対象者と場のしつらえが合っているかという話です。

 

Eテレの番組”びじゅちゅーん”もめっちゃ妄想ですよね。

ーそうそうそう。二次創作は、それはそれで楽しいです。これがきっかけで橋が架かるという人もいると思います。
ただ、これを文化財として継承していくとか、なぜ人間にとってこういう作品を所蔵し受け継いでいく必要があるのかを考えたときには、ここ(第2や第3段階)で終わっていると難しいんです。楽しむことが主眼であれば、何も美術じゃなくてもよくなるんですよ。
第4・第5ぐらいまで「成熟」していると、その人は、「これでなければならない、残そう、伝えよう、共有しよう」という力になっていくと思う。自分で味わってみて、その背景や歴史、その芸術や芸能の本質が見えてくる、自分なりに確信し言語化できていくと、「じゃあこれからも置いておこうか、伝えようか」となる。
これを観ている自分が、今ここで受け取ったから、次に渡していかなきゃいけない使命感というか。すごくいいものだからとか、真価が理解できるようになるためには、学びがこの第4・5段階まで深まっていたほうがよいと思うのです。

 

●感想: 小学校の国語の授業で「物語の鑑賞」っていうのがあるんですよね。まさにこのステップだなと思いました。低学年の頃は、「このおはなしの続きを書こう」みたいな感じで、イマジネーションを膨らます。「かえるくんはおうちに行ってからなにをしたかな?」とか。それがだんだんと、「それはわたしにこういう体験があったから、こう思うんです」っていう感じで自分の体験と紐づけるような部分が出てくる。高学年になると、作者の人生と紐付けて、「その人は人生でこんな出来事があったから、作品にこう表れているのかも」となり、次に文体などの話になっていっていう。やっぱりステップを踏んでる、鑑賞のステップなんだだなぁって思って聞いていました。

ーやったぁ!この発表を聞いていた方自身の経験とつながって発見があったことがうれしいです!

 

●質問:主に第3段階で分類や解釈にのめり込んだ人は、物語としての楽しみ方も同時に持ち得てるいるんでしょうか。それとも分類される対象物みたいに変わっちゃうんでしょうか?

ーそれ!それはわたしも非常に興味深いところです。この理論でいけば順番ふんでくはずなので、物語の段階(第1段階)を通っていくはずなのに、とてもそう思えないようなデータ分析や体系化だけで物語の話が共有できない人もいます。通ったけれど、忘れているのかもしれない。

なかったことになってる人もいるかも。分類自体も楽しいし快楽がありそう。それだけ語るっていうのはありそうです。

ー展覧会は全部行って記録とって。それを語りたい人もいるかもですね。だからやっぱりその場の「目的」と「対象者」なんだろうと思います。

 

最後に補足です。

例えば、美術に対して美的発達段階の第3や第4段階にアプローチしている人は、美術ではない他の未知の分野に接したときに、1からはじめても、発達が早くなると思います。「これって美術のあの視点と似ている」とか感受しながら解釈したり体系立てたりできる。つながるのが早くなっていくと思う。そうすることで日常も人生ももっと広がるし豊かに耕されていきます。

それから、きょう話してみて思ったのは、「自由に見ればいいんだよ」という声かけに対して、わたしは無責任さ、怒りといってもいいと思いますが、、それを感じているんだなと思いました。
「無理にわかろうとしなくても、楽しまなくてもいいんじゃない」「教養とか知識とか増やさなくていいんじゃん」「美術館に涼み・暖を取りにきなよ」とか。
もちろんこういうのも一つのアプローチなんだけど、大人に対する態度じゃないよなぁというところもあるんです。
ハードルを下げる、気軽さで橋を架けようとして、「あんた無知でしょ」という態度に見えてしまうことがあるのは残念。

「表現とは特別なものではなく、あなたもきっと他のことでは段階を踏んで知ったりできるようになったり成長が起こっているはずだから。一緒に探求しよう。ちょっと無理しよう、その先ぜったい楽しいから」という姿勢でわたしはアプローチしたいです。

 

きょうはほんとうにありがとうございました!!

(了)

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