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競技かるたを始めて3年が過ぎた。

競技かるたについては、こちらこちらこちらの記事にも書いたことに加え、対戦の度ごとに人生の示唆を与えてくれる存在として、わたしがとても大切にしているものだ。限りある命の時間を競技かるただけに費やすことはできないので、取り組める時間自体は少ないが、得たことを言葉にして表現することが、わたしの使命でもあると最近は考えている。

 

競技かるたの世界は、性別も年齢も国籍も関係ない。

40代女性のわたしは、大学生の男性と対戦することもあれば、70代の女性や小学生の男性と対戦することもある。日本にルーツのない海外在住の競技者と対戦したことはまだないけれど、去年から滋賀で世界大会もひらかれるようになったし、これから競技人口は増えてくるのではないかと期待する。もちろん、実際の所属や社会的立場や性別や国籍は、本人が言わなければ明確でないことも多いだろう。

大会では同じ級での対戦となるが、普段の練習では異なる級の人と対戦する。
一度、札のある場に坐すれば、さまざまな違いを超えて、競技者として対等な関係にある。

きのうF級の12,13歳ぐらいの女の子(おそらく)に指導をしていて「対等性と謙虚さ」について思うことがあった。大人と相対するということに恥じらいや気後れがある。こちらのアドバイスも聴いてはいるのだけれど、こちらに伝わるような声で答えることができない、わかりあえる反応が返せないでいる。迷うときやわからないときに質問もできないので、こちらからはたらきかける必要がある。

わたしが知らず圧迫感を出していて、安心して表現できなかったのかもしれない。また、わたし自身も大人に教えてもらうときに自分からハキハキと尋ねるような子どもではなかったので、それは歳相応な振る舞いなのかもしれないし、その人による性質や特性もあるので、決してダメということではない。

けれども、この競技の道を行く以上は、「対等性」を自分の軸に持っていく必要がある。なぜなら競技かるたはセルフジャッジのスポーツだからだ。大会全体の審判はいるが、特別なシーンを除き個々の試合の審判にもつかない。競技者から求められたときにのみ判定をし、自ら進んで判定はしない。自分と対戦相手の二者で、取りの成立について確認し合っていく必要がある。そのときに、自分がどのような取りをしたのか、取りなのか、お手つきなのか、自分の動作や相手の動作、判断やその理由について「主張」をしなくてはならない。相手にもわかるように「競技かるたのルールに則った共通言語」で主張しなければならない。日本語でということではなく、主張の仕方にも手順があるということだ。そしてそれは目の前の相手に伝わるものでなくてはならない。伝達し、共有されなければ意味がない。

主張は相手が誰であれ、行う。大人であれ、子どもであれ、どのような性別であれ、日本語以外の話者であれ。そのときに気後れして主張しないでいると、自分にとって不利になるだけではなく、競技かるたの対戦が「成立しない」。勝ち負けの結果は出たとしても、自分への信頼は培われず、自分にとって競技する理由を失う。

主張も含めて競技なのだ。特に大会では、1戦でも多く勝ち、昇級を目指す人たちが集うので、皆真剣に主張してくる。それに対して受け止めて自分の主張をするには、普段からの安全な練習の場でトレーニングをしておく以外に方法がない。

もちろん大会に出ないという選択もあるけれども、それでもやはり「主張」は競技かるたにとって大切な要素だ。相手が誰であれ、相手を尊重しながら自分の考えを真摯に述べることは、人生にとって大きな力になる。
自分への信頼があり、自分の軸があり、自分を形作る土台になる。大人にとっても、これまで自分の意見を持つことを恐れていた人にとってもよい訓練になる。相手を騙すとか言いくるめるということではなく、自分を主語に語るトレーニングになる。

相手が自分より下の級でも、年齢が若くても、経験が浅くても、何かしら学ぶことが必ずある。
かるたのことでも、かるた以外のことでも。

「謙虚さ」も競技かるたから学ぶ大切なことだ。40代のわたしは、自分の子どもといってもいい年齢の人たちに頭を下げて教えを請う。こうするときに正気に戻れる、と感じる。知らず知らず、「自分より下」「未熟な存在」とランクづけをしがちな自分を思い出すからだ。

わたしはある分野のある事物についてはとてもよく知っていて、できると確信していることがあり、人に教えられるレベルのこともある。けれども、競技かるたの場では、わたしは知らないことやできないことのほうが圧倒的に多い。そのときに謙虚さを持って学ぼうとすることと、それが難しいときに葛藤することも同じくらい大切だと思っている。葛藤とはたとえば、キャリアが浅いから、時間がないから、体力がないから、等々、ついつい言い訳がましくなる。

そうではない。
一旦場に坐すれば、わたしと相手は対等なのだ。
背景や経緯もまるごと投げ出して、今そこにある自分として相対することができるのだ。
孤独でもあるけれど、これほど安寧な場所もない。

同じ競技者であっても、かるたをする理由は一人ひとりまったく違う。
他の人の取り組む姿勢を見て揺らぐときには、自分の軸が揺らいでいるのだ。
そしてそれが揺らぎながらも安定している状態をどれだけつくっていけるか、を目指している。

 

この謙虚さや対等性を日常や自分の得意分野に持ち帰るためにも、わたしは競技を続けている。苦手で難しくてやってもやってもわからない、でも知りたいことを日常に置きながら、新しい世界や道に挑戦していく。自分をストレッチし続けていくことが、健やかな成長や老いの鍵だと、この頃は特に強く感じる。

さらに、かるた以外の場で感じることだが、専門分野を持つ人、人に教える立場、専門家と目される人ほど、未経験者や初心者の体験を別の分野で積むこと、積み続けることが大切だと感じる。新しい世界や道に初めて分け入っていくときの自分自身の関心の推移、段階ごとの景色の見え方の違い、聞こえてくる言葉…、そのとき自分がどのような環境や状況や人の影響でよき学びを得たのか、身体感覚を伴う実感をひとつでも多く身につけ、わからなさや恥ずかしさや葛藤に身を浸し続ける。

「対等性」と「謙虚さ」。
どちらもとても難しいものだ。でも、だからこそ、あえて。

 

専門分野を持たずとも、人に教授・指導する立場にいる自覚がなくとも、年齢を重ねてくると、誰もが自然と何かの導き手になっていく。
それが生命の循環だ。

わたしにとってはたまたま競技かるたが傍にいてくれるものだが、人により対象は異なるだろう。
後進にとってよき導き手となる力をくれるものが人にはあり、それがめいめいの傍らにいることを思うと、たとえこのことで膝を付き合わせて語り合うことはなかったとしても、言い得ぬ温もりを感じる。

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